ソバキス (2008.08.15.)

 目が覚めたら体が汗まみれだった。起きたばかりだというのに何となく疲れていたけど、朝からセミがうるさいし、それにひどく暑かったから聡子は二度寝をする気にもなれなかった。
 不快だ。
 シャワーを浴びて朝食を済ませ、今日は何をしたものかと考えながらも扇風機の前に座り込んでぼんやりと時間を浪費していると、綾乃から電話がかかってきた。
「よっす。聡子さ、あんた暇でしょ」
 いきなり断定してきた。
「は? 暇じゃねえよ。むしろ忙しいよ。馬車馬のようだよ。もう目が回りそうだよ」
 目は回っていないけど扇風機ならすぐそばで回っているから半分くらいは嘘ではないだろう、などと聡子は思う。
「ああ、そういう嘘はいいからさ、うちに来なさいよ。昼ご飯くらいは出すし」
「嘘じゃねえよ。嘘じゃないし。っていうか嘘じゃねえっての」
「あ、三回も言った。でも嘘でしょ?」
「いや嘘だけどさ、嘘じゃないって言ってるんだから少しは相手の顔を立てようとか思わないのかよ」
「全然思わない。それに、こういう不毛な会話は正直どうかと思うよ?」
 綾乃は呆れたような声で言う。
「じゃあ手前っちの用件は不毛じゃないのかよ。っていうかどうして私がおまえの家に行く必要があんのさ」
「ああ、そりゃ暇だし家族も留守だからだけど」
「お前が来るって選択肢はないわけ?」
「そりゃ嫌よ。こんなに暑い日に外を出歩くなんて正気の沙汰じゃないもの」
 綾乃はしれっと言ってのけた。
「じゃあ何か、お前は私にその、正気の沙汰じゃないことをしろって言ってる、と、そういう話か。オーケー?」
「イエース、ザッツライト」
 見事な棒読み英語だった。
「あのな」
「それとも何よ、聡子は私と会うのは嫌? だったら別にいいけど」
 綾乃の声のトーンが若干落ちる。
「あ? 誰もそんなこと言って」
「まあ実際外暑そうだしね。家の中でも暑いのにずいぶんいい天気だもの今日。無闇に出歩くのは健康的じゃなさそう。うん、じゃあ次の機会にでも」
 聡子の発言を遮って、綾乃は早口で畳み掛ける。
「行くよ行くっての行けばいいんだろ畜生」
「また三回言った。それに嫌々来られてもこっちだって迷惑だよう」
「ああもう面倒臭え、だいたい最初に来いっつったのは手前っちだろうが。もう絶対行くからな。居留守使ったら窓に穴開けてやるから覚悟しとけ」
 聡子は言うだけ言って電話を切ると顔を洗って服を着替えて髪を整えて、玄関から外に出ると暑いというより熱い空気が粘っこく体に絡みついてきた。
「・・・っていうか、どうして私が行くって話になったんだ」
 綾乃に乗せられたという自覚は、この期に及んでも聡子にはない。

 汗まみれで到着した聡子に、綾乃はいきなりビデオで『キラートマト〜赤いトマトソースの伝説〜』を見せた。深夜枠で放送していたのを録画したものだ。
 わざわざ呼びつけておいてこのチョイスは相当に斜め上だと聡子は思ったが、その後で綾乃が昼食を作ることになったのでとりあえず黙っておいた。
 綾乃は料理が上手くて、それは味もだけれど手際のよさが際立っていると聡子は評価している。普段家事をしない自分が手を出したところでマイナスにしかならないのは経験から学習済みなので、聡子は今日も手伝わずに任せておいた。
 そういうわけで聡子は特にすることもないのでダイニングの椅子に座って、料理をする綾乃の後姿をぼんやりと見ていたら、いきなり綾乃が振り返って目が合った。
「ふふん、いいもんでしょ」
 妙ににやにやした顔でそう言う。
「何がだよ」
「わかってるくせに」
「いや、全然わからないから」
「ふうん、じゃあそういうことにしておいてもいいけど」
「わかんねえよ」

 綾乃が作ったのは透明で冷たいスープの中華そばで、上に細かく切った豚肉と高菜が乗っていた。さっぱりしていて食べやすい。
「こういうのはあんまり食べたことないな。冷やし中華ならあるけど」
「そ? 私は夏場にはよく作るけど。てか、冷やし中華食べたことがない人は今時あまりいないと思うよ」
「そりゃそうだな。・・・うまいなこれ」
「うん、私も聡子は料理をおいしそうに食べるから好きだよ」
「ん・・・って、は? いや、おい?」
 聡子は比較的大雑把な方ではあるが、双方の発言は述語も目的語も違っていて「私も」の「も」が全然機能していないことにはかろうじて気がついた。
「だってさ、そういうものよ? 黙々とエサでも食べるみたいに食事する人にはあんまし料理とか作りたくないもの」
「ん、まあ、そうか」
 綾乃が自然体で返すので、違和感を持った自分の方がおかしいのかもしれないと聡子は思い、でもやっぱり今のは話題がずれていないかとも思う。
「そ。聡子はリアクションがわかりやすいからね。参考になっていいよ」
「その、わかりやすいっての、あんましほめられた気がしねえんだけどな」
「そりゃ別にほめてないもの」
 そう言って綾乃は笑う。
 好きというのは賞賛ではなく好意を示す言葉なので、別に嘘は言っていない。

 午後も特にすることはなかったので、だらだらと漫画を読んだりワイドショーに突っ込みを入れたりして無駄に時間を過ごしていた。
「っかし、本当暑いよな」
 聡子は窓際で寝そべって空を見ながら言った。
「雨でも降らねえかな」
「夕立くらい来るんじゃない?」
 雑誌をめくりながら綾乃が返してきた。
「そっか? でもここんとこ夕立も全然無いぞ。何かダムの水位も下がってるらしいし」
 もっとも夏場は程度の差はあれ、ほぼ毎年水位は下がっている。
「でも降るんじゃないかな。一応天気予報でも降水確率が付いてたし」
「ああ? 予報ってここ一週間くらい毎日明日は今日より気温下がるっつって全部外れてんじゃんか」
 それに窓から見える空は抜けるように青く、今から雨が降るとは聡子には思えなかった。
 すると綾乃は上体を起こすと、
「じゃあ降るかどうか賭ける?」
 そう言いだした。
「いや、別にいいけど、何賭けんだよ。言っておくけど金なら無いからな」
「そんなの知ってるってば。ん、そうね」
 綾乃は軽く息を継ぐ。
「・・・夕方まで雨が降らなかったら、私にキスさせてあげよう」
「は? ・・・はあ? え? 何だよそれ。お前賭けの意味わかってんのか。降らなかったら私の勝ちってことだろ」
「うん」
「それじゃむしろ罰ゲームじゃないか」
「そうなの? ふうん、じゃあ雨が降ったら、ならいいのね」
「いや、あんまりよくねえっつうか降らなかった場合の条件にもよるだろ」
「もう、聡子ってしゃべり方が男っぽい割に思い切りが悪いよね」
 綾乃は呆れたように言う。
「じゃあ雨が降らなかったら王将でランチのBセットに餃子付けたげるよ。これで満足?」
「何か、馬鹿にされてる気がすんだけどな」
 駅前の王将のBセットは天津飯に塩焼きそばが付いて五百円だ。つまり餃子を付けて税込み約七百円といったところが聡子の唇の対価だと、そういう話になる。
 もっともそれは確率が五分五分の場合だ。今日これから雨が降るはずはないと聡子は踏んでいるし、ならば話に乗れば只飯が食べられるということで、悪い話ではない。
「わかった、それで乗る。っていうかどうせ雨なんか降らねえし」
「じゃ、賭けは成立ってことで。日が沈むまでだと遅いし、五時まででいいよ」
 綾乃はやけに余裕があるように見え、聡子は少しだけ不安になる。


 そしてそれから一時間もしないうちに大雨になった。


「あー、えらく降ってきたな」
 確率がどうあれ、唇と七百円かそこらの昼食では割に合わないのではないかと、聡子は今更ながら思う。
「本当に今更だ。むしろ人生は今更の繰り返しだな」
「何の話よ。・・・うん、賭けは私の勝ちってことで、異存は無いよね?」
「異存はねえよ。後悔とかはあるけど」
「あんたって本当、男っぽい割に男らしくないよね」
「今日二回目じゃないかそれ、っていうかそもそも私は男じゃねえし」
「聡子が二回も煮え切らないこと言うからじゃないの」
 そう言うと綾乃は崩した脚を組みなおして正座したので、聡子も綾乃に向き直る。
「ていうかさ、お前は賭けに勝った。だから私が対価を払う。そこまではまあいいとしてな。お前本当にその、こんなことしたいわけ?」
「まあね。ただ、どちらかと言うと私がしたいっていうより、聡子がそうしたいと思っているけど自分から踏み込む度胸もないだろうと私は判断したわけだ」
 口調は少し冗談めいているけど、視線は定まっている。
「回りくでえよ。っていうか勝手に判断するなよ」
「じゃ、あんた本当に、私とキスなんか全然全くこれっぽっちもしたくないって、断言できる?」
「そんなもの・・・」
 当たり前だ、と言おうとして、何か引っかかった。
「賭けには勝ったけどさ、聡子が本当に嫌なら、しないよ」
 綾乃はひどく真面目な顔でそう言うので聡子はいよいよ混乱する。
「いや、その、したいってこともないけど、ああ、そんなこと考えたことも無かったっていうか」
「全く、煮え切らないにも程があるよね。まあいいけど。ところでさっきフルーチェ作っておいたんだけど食べる?」
「食べる」
「即答かよ。全く。じゃ、台所行こ」
 そう言うと綾乃は立ち上がって部屋を出るので、聡子もそれについて行った。
 話の流れがよくわからないが、さっきの件はとりあえず回避できたのかと、聡子は少し安心する。
 台所に行き、綾乃は冷蔵庫の中に入っていた、ラップのかかったボウルを取り出すと、
「はい、これ持ってて」
 そう言って手渡してきたので、聡子はとりあえず両手でボウルを受け取った。割と重くてかなり冷たい。
「落とさないでちゃんと持っててよ」
 綾乃は両手を聡子の肩に置いて、そのまま顔を近づけて唇を唇に軽く接触させた。
「・・・え?」
「はい、ご苦労さま」
 綾乃は平然と聡子からボウルを取り上げてダイニングの机に置き、食器棚から器とスプーンを取り出す。
「・・・いやいやいや、んな、何しやがるっていうかお前何するんだお前」
「二回も言わなくていいから。だってさ、賭けが成立したうえに、聡子は嫌だとは言わなかったからね。しない理由もないでしょ」
 赤面して口をぱくぱくさせている聡子を無視して、綾乃はボウルの中身を器に取り分ける。
「じゃ、食べようよ」
「いや、だから、その、お前な」
「ああ、もしかして聡子ってば初めてだった?」
「むなな、な、何言って」
「私は初めてだったけどね。っていうかさ、とりあえず座りなよ」
 そう言うと綾乃はフルーチェを食べ始めた。

 



 あとがき
 とりあえず書いた時期が夏場だったので気候はそういう感じです。仕上げて寝かせて読み返してアップするまでに1年近くかかったので季節感もちょうどいい感じになったというかなってしまったというか。
 一人称でばかり書いているので今回は三人称にしてみましたが、文体が三人称になっただけで実質聡子視点で固定されていてあまり意味が無いですか。


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