吊り橋  (2005.12.18.)

 

 川端遠見は私の同級生だ。髪は短めで体は細く、けっこう背が高い。顔立ちも整っているし、素材はかなり高性能な部類だと思う。けれどあまり他人の目を意識していないというか、立ち居振舞いがおおむね隙だらけなので、高い身長もあいまって全体の印象としては間延びした感じがしないでもない。
 そして私は現在、遠見に後ろから抱きすくめられるような体勢になっている。困った状況だ。眼鏡が少しずれていて、でも腕は胴体ごと遠見の腕が巻きついていて動かせないので位置をなおせない。気持ち悪い。そしてそれだけなら遠見を説得するなり強引に暴れるなりして離れてしまえばすむ話なのだが、私の周囲には何故か大量に鹿がいる。

 鹿である。シカ。あの茶色くて長いツノが生えた草食動物だ。

 「周囲に鹿がたくさん居る」というだけの状況なら、まあ比較的珍しいがありえない話ではないだろう。奈良に行けば鹿はいくらでもいるし、鹿せんべいを買えば鹿を自分のそばに寄せることもできる。そういえば金管楽器を鳴らして鹿を集めることもできるらしい。前にトリビアでやっていた。
 それにロケーションが奈良ではなく宮島ならもっと簡単で、とにかく食べられそうなものを手に持ってさえいれば鹿はいくらでも寄ってくる。際限なく寄ってくる。そして与えなくても勝手に食べる。むしろ奪う。
 どうも奈良と宮島では鹿に餌を与える観光客の絶対数にずいぶんと差があるようで、宮島の鹿は奈良の鹿よりも飢えているらしい。なおかつ野生動物と違って人間に慣れているのでおよそ遠慮が無い。いや野生動物は遠慮ではなく警戒しているのだろうけど。

 けれどここは学校の校庭であり、ついでに言えばうちの学校があるのは奈良でも宮島でもない。校内で鹿を飼っていたりもしないし、私は今まで敷地内で鹿を見たことがない。どうしてここに鹿がいるのか私には全く理解できない。

 「でもまあ実際いるからね、鹿」
 現在、遠見の口は私の耳のすぐ後ろくらいにあるので、その声はものすごくよく聞こえる。ちょっとした息遣いまで聞こえる。そして遠見は、
 「ところで名琴ちゃんって、いいにおいがするね。お母さんみたい」
 「はい?」
 こんなことを唐突に言い出すので私としては対処に困る。というか「いい匂い」と「お母さん」が直結する発想が既に疑問だけれど、しかしその辺には何か事情でもあるのかも・・・などと、混乱気味なので思考が横滑りしがちだ。
 「体もやわらかいしさ。やっぱりおんなのこはこうでないとね。うん。私は肉薄いしさ。ていうかさ、名琴ちゃん最近胸育ってない?」
 けれどそういう遠見の胸は私の背中に押し付けられていて無視できない存在感を主張しているので、どうも彼女の自己認識は正確とは言い難いような気がするのだが、それも置いておくとする。問題は他に山積みだ。
 「・・・あんたはそれ素でやってるのかもしれないけどな、それでもし私が変な方向に目覚めでもしたら責任取ってくれんのか?」
 「目覚めとか責任とかよくわからないけど、私は名琴ちゃんのこと好きだよ」
 断言しやがった。
 遠見はこういう女なのでこの「好き」はむしろ、例えば「カレーが好きだ」とかいう場合の「好き」に近いものだろう。だろうけれど、言われた私としてはそれなりに動揺する。

 ・・・そして、同性の同級生と図らずして妙な雰囲気になりつつ鹿に囲まれているだけなら、相当に面倒な、少なくとも放課後に校庭で何の前触れもなく遭遇する事態としてはおよそ想定外にやっかいな状況ではあるけれど、別にその程度のことでは死にはしない。遠見の誤解を解いて鹿のいないところまで移動すれば済む話だ。
 けれど困ったことに私は鹿が非常に苦手だ。はっきり言って怖いんである。すごく。

 さっき宮島の鹿の話をしたけれど、あれは実のところ私の体験談だ。私は子供の頃に家族旅行で宮島に行き、弁当を食べようとして鹿に囲まれたのだ。物的被害は弁当を食われたくらいだけど、言ってみれば精神的に蹂躙されたのだ。もうトラウマである。シカだけど。・・・このギャグセンスにはついていけないという意見も当然とは思うが、あまり冷静ではないので容赦していただきたい。
 だいたいうちの親も親だ。宮島なんてせいぜい鹿がいる以外には山奥にモンキーセンターがあるくらいで、後は平氏ゆかりの地だとかででっかい鳥居が海面から生えているくらいのものだ。というか神社の敷地がおおむね海の中なのだけれど。あと市街地には旅館とみやげ物屋くらいしかないし、売っているのは主にもみじまんじゅうとシャモジと、あとは宮島と全く無関係とは言わないにしても関連付けるにはどうにも遠い秋吉台の大理石の置物くらいで、要するにおよそ子供を連れて行くような観光地ではない。
 いや、鹿と猿がいるだけ宮島はまだマシで、私は子供の頃に家族旅行で京都の三十三間堂にも行ったし高野山にも行った。もう仏像とか地蔵くらいしか見るものがなくて非常に退屈でうちの親はいったい何考えてやがったんだ。うう。
 ・・・そしてとどのつまり、トラウマが鹿である。鹿が怖いんである。これはけっこう間抜けな話だ。少なくとも他者の共感は得にくい。例えばあなたの友人にはヘビが怖いとか虫が怖いとかそういう人はいるかもしれないし、あなた自身がそうかもしれないけれど、けれど鹿が怖いというのはあまり無いだろう。というか鹿に対して積極的に好き嫌いの感情を持っている人はかなり少数派だと思う。
 中学の修学旅行では結局奈良に行く羽目になったが、あれはちょっとした地獄だった。実際には奈良の鹿は宮島とちがってあまり飢えていなかったので周囲を囲まれたりはしなかったが、それでも壁も柵も網もなく目の前に鹿がいて歩いたりしているんである。すごく怖かった。もし親の仕事の都合か何かで奈良に引っ越す羽目になったら、もう引きこもるか家出するかの二択だと本気で思ったくらいだ。けれど幸いにして、奈良に行ったのはその一度だけで今に至っている。
 というか私は奈良といえば観光地しか知らないので断言はできないけれど、奈良県下のどこに行っても鹿が歩いているわけではないだろう。たぶん。

 ・・・もっとも、実際問題として鹿はせいぜい人の弁当を食うくらいで人を食ったりはしない。だから、例えば熊とか虎とかプレデターあたりと比べれば危険性はずいぶん低い。理屈としては怖がる必要は全く無い。無いはずだ。
 けれど私は鹿が危険だから怖いのではなく理由もなく怖いのだから、そんな比較に意味はないだろう。それに日本では熊はともかく虎はあまり見かけないし、日本でプレデターに遭遇する可能性は、おそらく妖怪小豆洗いに遭遇する確率よりも低いと思う。

 「で、さ。小豆はいいけど、私はいつまでこうしていればいいのかな」
 知らないうちに小豆洗いがどうとか口走ってしまっていたらしい。
 「私に訊くな」
 私はとにかく怖いので遠見に抱きすくめてもらっている、というか発端は勝手にじゃれついてきたんだが、ここで離れられるともう恐怖でどうにかしてしまいそうなので離れるに離れられない。誰でもいいから、いや実際には誰でもいいわけでは決してないけれど、とにかく体を支えてもらって体温を感じているだけでもいくらか心が落ち着く。
 だからこの場合、私は遠見に感謝してしかるべきなのだけれど、
 「んー、ところで名琴名琴ちゃんっておしりの肉付きもいいね」
 「ふえ?」
 ななな何を言い出すかこいつは。
 「やっぱりうらやましいよう」
 ・・・こんな調子なのであまり素直に感謝しにくい。

 「・・・名琴ちゃんさ、何か顔が変な色だよ」
 「変って」
 「赤いような青いような。苦しかったりしないの?」
 苦しいのは、それは苦しい。さっきから鹿の恐怖が継続しているので心臓がどきどき、いやむしろばくばくしている。これで私が一昔前の少女漫画の主人公だったりしたら「こっこれはもしかして、恋?」などと思うところだし、一昔前じゃなくても少女漫画じゃなくギャグ漫画なら割とありそうな話だ。
 しかしこの場合、相手として考えられるのは遠見と鹿の二択なんである。遠見はいい奴だけれど何しろ同性だし、鹿に至ってはそもそも人間ですらない。こんな状況で恋に落ちて語尾に「はあと」とか付けたりする事態に陥るのはぜひとも避けたいところだ。
 「何その『はあと』って」
 「ひゃう?」
 ・・・動揺しているせいか、思考がひとりごとでだだ漏れになっているらしい。危険だ。
 「・・・とにかくさ、調子悪いんならこんなところで立ってないで休んだ方がいいよう。保健室行こ保健室」
 「行けるものならとっくに行っておると言うに」
 「歩けないの? じゃあ私がおんぶしてくよ」
 これで遠見が男だったらもうとっくに惚れているところであり、むしろこう精神的に弱っていて胸がばくばくしていると男でなくても惚れてしまいそうで大変に危険だ。
 「はう・・・」
 「ああもう、本当に苦しそうだよ? ほら、遠慮しないで」
 動かない私に業を煮やして、遠見が私を強引に横抱きにしようとしたところに、

 「おーうーまーの、おーやーこーは、なーかーよーしーこーよーしー」
 唐突に歌声が聞こえた。しかも童謡。
 あまりに唐突すぎて遠見ですら動作が止まっている。

 声のする方を見ると、七山綾が歌いながらこちらに歩いてくる。相変わらずどういう手入れをしているのかわからないキューティクル加減だが、まあそれはいい。
 「いーつーでーも、いーっしょに、ぽっくり、ぽっくり、あーるーくー」
 ・・・むしろ私がぽっくりイッてしまいそうだと思う。
 「ふう。・・・あら、お二人とも、こんなところで何を・・・」
 歌い終わった綾はこちらに気がついたようで、声をかけてきて、
 「んまっ」
 途中で妙な声を出して硬直する。
 「綾ちゃんも顔色が変だね。熱でもあるのかな」
 「さあな」
 綾は何故か赤面している。さっきまでのんきに歌っていたのだから、急に発熱したりはしないと思うが。
 「・・・わ、わたくしは、その、お、お二人が親密なのは存じていましたが、いえ、その、・・・そういうご関係だったとは・・・」
 何か妙なことを言っている・・・と思ったのだけれど。
 しかし、よくよく自分のおかれた状況を確認してみると、さっきまで遠見に後ろから抱きすくめられていたところに、遠見が私を保健室につれて行くために私を持ち上げようとして体の向きを変えて、そこで歌が聞こえて硬直した。そういうことだ。
 ・・・で、結果としてのこの状況だけ取り出すと、要するに、どう見ても、遠見が正面から私を抱擁しているようにしか見えないことになっていた。ハグとかいうのだろうか。
 とりあえず第三者がこの体勢を見て想定できる可能性は、私たちがただならぬ関係にあるか、もしくは私たちが練習中の演劇部員であるかくらいだろう。
 そして私たちが少なくとも演劇部員ではないことは綾も知っているから、前者の説を採用するのは自然な成り行きではある。あるけれど、でもそれは誤解であって、その、何だ、困る。というか下手をすると誤解ではなくなりそうなところがかなり困る。
 「あ、いや、これはだ」
 「・・・い、いえ、それは無理強いはいけませんし、法に触れるような欲求は耐えてこらえるべきです。しかしわたくし、双方の同意のうえであって法的にも問題がなければ、愛は年齢や性別で制限されるべきではないと、そう思っておりましてよ。ええ。人の想いは古い因習や狭量な偏見によって阻まれるべきではありません」
 「いや、だからな」
 誤解するのは仕方ないとしても、とりあえず話を聞いてもらいたい。
 「けれど・・・やはり、その、こうして目の当たりにして、しかもそれが普段から親しくさせていただいている方々ですと、やはり動揺してしまったのは否めませんわ。しかしこれもわたくしの狭量さと見識の不足がいたすこと」
 「話を聞けよ」
 「木島さんも川端さんもわたくしの大切なお友達で、お二方ともに尊敬すべき人格であられます。それがこうして結ばれるというのなら、わたくしはそれを祝福いたしましてよ。ええ、わたくしは何があってもお二方の味方です。それは誓って」
 ・・・その気持ちはうれしいのだけれど、そろそろ前提が間違っていることに気がついてほしい。
 と、遠見もいい加減どうかと思ったようで、
 「ああ、違うよ綾ちゃん。名琴ちゃんの顔色が変だからさ、保健室に」
 「んまあっ」
 さっきから桃くらいには赤っぽかった綾の顔が、さらにリンゴくらい赤くなった。もう傍目にも露骨なくらいぐるぐるしている。
 「そ、そんな、保健室だなんて! まだ日も高いというのに・・・」
 「おいこら、勝手な勘違いをするな!」
 遠見に全身固められていて身動きが取れなかったが、もし体が自由になれば頭をはたいているところだ。うう。


 「・・・ああ、そういうことでしたの。それは・・・残念というか安心といいましょうか、まあ、重畳でございますわ」
 どこが残念でどう安心でどの辺が重畳なのか、若干ひっかかるものがないでもないが、面倒なのでそれは置いておく。
 「しかし、名琴さんが鹿が苦手でしたとは存じませんでしたわ。わたくし、悪いことをしてしまったようです」
 「・・・え?」
 どういう意味だ。
 「ああ、いえ、この鹿はですね、わたくしがこちらに誘導しましたの」
 「・・・ええええ?」
 何か今とんでもないこと言わなかったかこいつ。
 「ええ、話すと少々長くなりますが」

 ・・・実際長かったので、この話は私が切り詰めて説明する。
 私が鹿と遭遇するより少し前に、綾は裏門の方でトランペットを練習していた。普段は音楽室を使うけれど、天気が良かったので外に出たらしい。ちなみに綾は吹奏楽部の部員ではないのだが、だったら何故学校でトランペットを吹くのかと訊かれれば、綾というのはそういう人格なのだとしか答えようがない。
 で、トランペットを吹いていると、裏門の外の道路で大型のトラックが事故を起こして立ち往生した。そしてその荷台には鹿が大量に乗っていた、らしい。
 特に怪我人は出なかったようで、周囲の状況から警察への通報等も済んでいるようだったので、綾はその状況には関与せずに練習に戻ったところ、荷台の金具が壊れていたらしく、勝手に降りてきた鹿がトランペットの音に反応して寄ってきたのだそうだ。
 「そこでわたくし、このままトランペットを吹きながら歩いていくと鹿がついてくるものなのか、試してみたい誘惑が抑えられなかったのです」
 ということで、綾はパイドパイパーよろしく鹿を引き連れて中庭まで行き、そこで喉が乾いたので一旦校舎に戻り、そして放置された鹿が何となくたたずんでいるところに私と遠見がでくわした・・・ということらしい。
 って、トリビアは伏線だったのか。ひどい話もあったものだ。


 そして、その後で綾がトランペットの練習を再開したら鹿の集団が敷地内のそこかしこに移動して事態が泥沼化した、といった、無関係な他人として聞くぶんには愉快なのかもしれないエピソードもあったりするのだが、とにかく最終的には鹿は全て回収された。
 けれど私のトラウマは悪化してしまい、しばらくは鹿のいないところでも鹿におびえて遠見に介抱され、周囲の誤解を招くという日々を送る羽目になり、
 「名琴ちゃんはやっぱりやわらかくていいよねえ、くっついてるとすごい気持ちいいし」
 「ええい離れろっ」
 「だって、顔色悪いよ?」
 「・・・やっぱり、お二方は・・・」
 「だから勝手な妄想をするなっ」
 とか、そういう感じだ。非常に困る。




 

補足あとがき 

 ここのところ毎年1回は小説コンテンツを更新していたので、今年も年内に1本出しておこうと思って、形を出してから1年くらい放置していた文章を仕上げてみた、というのがこれです。
 内容については、その、瀬戸内海のように広い心で流していただけると幸いです。というか自分でも1年前の自分が何を考えていやがったのか理解に苦しみます。

 

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