蕪無さんはあまり動かない (2006.03.19.)
「3年ほど前、私がまだ学生だった頃の話です」
蕪無さんは中指で眼鏡を差し上げると、そう言った。
「あの頃私は家庭教師のアルバイトをしていたのですけれど」
「それ、意外」
現在の彼女は私の家庭教師なのだから意外と言うのもおかしいかもしれないが、彼女は私の家に居候をしていて、その対価としてとりあえず私の勉強を見ている、という状況なので、世間的には家庭教師なのか無職なのかは判断が微妙なところだ。
そしてそれは主に彼女の能力ではなく勤労意欲に起因しているようなので、学生の頃にバイトなんかしていたというのは、意外な話だと私は思う。
「ええ、まあ、色々としがらみがありましてね。何しろあの頃の私は今より3歳も若かったですから」
蕪無さんは冗談のようなことを表情を変えずに言うと、話を始めた。
家庭教師をしていたのは・・・一応仮名ということにしておきますが、霜柳という家です。私の生徒はゆきえさんという人で、3人姉妹の次女でした。そうですね、絵に描いたような深窓の令嬢でしたよ。
あちらのお姉さんは大らかというか少し抜けたところもある人で、妹さんは我の強い人だったのですが、ゆきえさんは穏やかで頭も切れるし、少しばかり茶目っ気もあって、ええ、完璧超人みたいな人でした。美人でしたし、人形みたいな。ただ、体は弱くて、家庭教師をつけたのも学校を休みがちだったからのようです。もっとも一を聞いて十を知るような人でしたから、私が必要だったかどうかは怪しいものですが。
妹さんはゆきえさんに嫌味じみたことを言うことも多かったですが、あれはあの人なりの好意もあったのでしょうね。ゆきえさんは周りに気を使う人でしたから、妹さんから見れば要領が悪くて損をしているようにも感じたのだろうと思います。・・・まあ、家族仲も、私に見える範囲では円満でした。
いえ、裏では全く円満ではなかった、というわけでもないですし、実のところこの辺の前置きは本題にあまり関係ないのですが、ゆきえさんの人となりは説明しておいた方がわかりよいと思いましたので。
秋の初め頃のことだったと思いますが、私が霜柳の家に向かうと、ちょうど家の裏手・・・何しろ大きい家でしたから、敷地を囲む塀までたどり着いても正面の門までは少し歩かないといけなかったのですが、裏手のあたりで、
「ちょっと、おねーさん」
そう、上から声をかけられました。
私が見上げると、霜柳の塀の上から張り出した大きな木の枝に、女の子が腰掛けていました。Tシャツとハーフパンツで、サンダルを履いた足をぶらぶらと揺らしていたように思います。
「そう、あんただよ、あんた。マンタ。オニイトマキエイ」
そう言う彼女の顔や声は、ゆきえさんに酷似していて、知らない人が見れば同一人物としか思えないだろう、というくらいでした。ただ、喋り方や雰囲気がまるで違うので、似てはいても別人だろうと、私は思いました。確証は持てませんでしたが。
そして別人だとするなら私は彼女には面識がないはずなので、
「・・・どちら様で?」
そう言ってみますと、
「どちら様もないよ、つれないね」
彼女は木の枝から飛び降りて私の目の前に着地して、
「ね、ちょっと付き合ってよ。退屈なの、あたしって人はさ」
開いた両手をひらひらさせながら言いました。
「いえ、今日は先約がありますので」
「何よう、いいじゃん別にぃ」
そう言ってふくれてみせる表情は、やはりゆきえさんと同じ顔でも同じ人ではないようで、違和感というか、新鮮ではありましたね。
「ねえ、遊ぼうよおねーさん。今日という日は二度と来ないんだよ?」
「いえ、だからこそ先約を破るわけには・・・」
正直に言って、私はこのゆきえさんによく似た人のことがかなり気にはなっていたのですが、家庭教師を無断で休むわけにもいきません。
「あーもう、融通きかねーのね、おねーさんってば。手羽先。もういいよ別に、から揚げにでもなっちゃえばいいのよ」
私は少し残念にも思いましたが、
「では、また今度」
そう言って彼女に背を向けたら、彼女はいきなり後ろから私に抱きついてきて、耳元で
「・・・おねーさんさ、鈍感とか気が利かないとか言われない?」
言いざま私の耳に軽くかみついて、
「じゃ、またねー。次があれば、だけど?」
私が何か言い返す間もなく、身軽に塀によじ登って木につかまると、そのまますぐに見えなくなりました。
それから私は霜柳の家に行ったのですが、ゆきえさんはちゃんと在宅で、白いワンピースを着ていました。
「こんにちは、蕪無さん。今日もよろしくお願いします」
そう言うゆきえさんの顔や声はさっきの彼女とまるで同じでしたが、やはり雰囲気は違うように感じました。
「こんにちは。・・・ところで、今日はずっとお宅に?」
「ええ、気分がすぐれないもので、また学校を休んでしまいました。だから蕪無さんが来られるのが楽しみで・・・」
「ああ、それは、恐縮です」
私の疑問は解決しませんでしたが、他人の空似ということもあるでしょうし、気にしないことにしました。
ただ、かまれた耳には、その感覚が残っていましたが。
「・・・それで?」
「いえ、それだけです」
ネクタイの結び目をいじりながら、蕪無さんはそっけなく言った。
「そいつは『次があれば』とか言って、結局『次』はなかったわけ?」
「そうなりますね。私はその後も、何度もあの道を通りましたが、彼女に会ったのは一度だけです」
「その、ゆきえって人が服を着替えて嘘をついていたとか、二重人格とか双子とかドッペルゲンガーとか、耳をかまれて感染して吸血鬼か何かになったとか、蕪無さんが欲求不満で幻覚を見たとか、そういうオチは無いの?」
蕪無さんは肩をすくめて、
「そんな話があると思いますか?」
さらりと言い放ってから、
「・・・あと、最後のはセクハラですね。これは貸しにしておきます」
そう付け加えた。
「っていうか、同じ顔と声の人が2人いる時点であまり無い話だよ・・・」
「ええ、まあ。どこにでもある話なら、わざわざしませんし。・・・ああ、ついでに言っておきますが、別にゆきえさんや霜柳の家には、その後特に変わったことは起きていないはずです」
蕪無さんは淡々としているので、
「・・・蕪無さん、それで納得してる?」
そう訊いてみたけど、
「さあ。あの人が何者だったのかはわかりませんが、だからどうということもないでしょう?」
やっぱり淡々としている。
「・・・じゃあ、訊いてもいい?」
「質問の内容にもよります」
「蕪無さん、ゆきえって人と、その木の上にいた人、どっちが好き?」
その質問に蕪無さんは眉一つ動かさず、
「どちらも好きですし、君のことも好きですよ、私は」
そう即答した。なので私は、
「・・・それ、正直に言ってる?」
さらにそう質問すると、
「冗談ですよ」
蕪無さんは薄く笑った。
あとがき
百合っぽい話は好きなのですが、私の内部における百合の認識は少々間違っているような気もする昨今です。
あと特にオチが無いのは仕様です。それとタイトルはいい案が無かったのでオリジナリティとか主張するのはやめておきました。